私は岐阜県羽島市で、大工の長男として生まれました。
父は中学を卒業後、地元の大工の棟梁に弟子入りした、たたき上げの大工職人で、3年間の厳しい修行の後、お礼奉公を3年ほどつとめ、大工として独り立ちしました。
10年ほど色々な現場を経験して、建設会社で知り合った母と結婚し、私が生まれた昭和47年に番工務店を開業しました。
朝早くから、夜遅くまで、たくさんのお弟子さんと共に、材木を刻んだり、道具の手入れをする父を見て、かっこいいなと憧れて
いましたが、お弟子さんたちに厳しく指導する父は怖い存在でもありました。
自宅の隣の工場には材木が山積みされていて、木の木端などが
たくさんあり、それを積み木がわりに遊んだり、大きくなると、
近所の子供たちと鬼ごっこやかくれんぼを、工場の中でして父に怒られたり、
生活の一部として、木と触れ合っていました。父の仕事は、住宅が多く建つ時期で順調でした。
羽島市だけでなく、岐阜市、大垣市、瑞穂市、輪之内町、愛知県一宮市など車で30分ほどの地域で、
割と大きな和風住宅を建築し、建てているとその近所の人に、「うちも同じ家を建ててくれ。」と言われることもあったそうです。
当時の父は朝早く仕事に出かけ、夜遅くに帰ってくる、そんな仕事ぶりでしたので、家で父をあまり見ることはなく、ほとんど会話もない生活でした。
私が中学生になると、夏休みなどに父の仕事の手伝いをするようになりました。大工の仕事を
させてもらえるわけもなく、足場や基礎工事、現場の掃除などの雑務などが主な仕事でした。
母に作ってもらったお弁当を持って、現場に出て仕事をすることは楽しかったように思います。
なかなか、完成まで仕事にたずさわることはありませんでしたが、
リフォームなどで当時のお宅に伺うと、お客様も覚えてくださっており、うれしく思います。
中学、高校と父の下でアルバイトは続けており、あまり勉強していませんでしたが、なんとか大学に入学することができました。
(2次募集でぎりぎり合格しました・・・。)
大学生になり建築の仕事にも色々あることがわかりました。
デザインや設計、材料研究や建物の歴史、コンクリートの建物、
都市計画など大工が作る木造建築だけではありませんでした。
もともと手先が器用でしたし、絵も好きでしたので、大学時代は設計やデザインに興味がいくようになりました。
時間だけはありましたので、有名建築家の設計した建物を見るために、日本中を旅行しました。
京都、奈良、大阪、神戸などの関西、東京、神奈川などの関東、建物を見てスケッチをし、写真を撮り、設計者の意図を考えたり、楽しい思い出です。
色々な建物を見て回りましたが、興味をひかれるものはやはり木造建築でした。
特に印象に残っているのは、京都の下賀茂神社と高山の日下部邸です。
二十歳そこそこの若造でしたが、薄暗い中にそそぐ光の美しさ、
通り抜ける風に感動しました。
今でも設計に悩んだり、迷った時は思い出し、時間があれば
京都や高山に足を運びます。このような大学生活でしたので、卒業研究は日本建築の歴史を専攻しました。
卒業後の進路はあまり考えていませんでしたが、どうしても京都に住みたかったので、京都の建設会社に就職しました。
就職先も決まり、卒業研究の追い込みをしていた平成7年1月、
阪神淡路大震災が発生しました。
1月17日当日、私は岐阜の実家で寝ていましたが、大きな揺れを感じ目を覚ましました。
すぐにテレビをつけ、震度などを確認しようと思いましたが、なかなか出ません。時間がたつにつれ、関西地方が大変になっているという
ニュースが流れ、悲惨な映像が映し出されてきました。それまでの人生において、あのような災害は初めての経験です。
京都には倒壊した建物はほとんどありませんでしたが、神戸地区は被害もひどく、多数の方が亡くなられました。
就職して半年ほどは瓦屋根の補修や外壁の補修がほとんどでした。
そこで見た光景はその後の建築人生に大きく影響しました。
絶対に建物によって人が殺されてはいけないと強く思いましたし、日本中どこでもこのようは
大災害が起こるのだと考えなおしました。
そのため、夜間学校として開校していました伝統建築研究科という、木造建築を学ぶ専門学校に
通うことにしました。昼間は働き、週3日夜学に通う生活をしていました。
短い期間でしたが京都での生活は充実していました。
仕事に勉強、休みの日には町中にある古い建物を見て回る。
友人もでき、このまま京都で生活しようかなとも思いましたが、
岐阜に戻り、家業を継ぐことにしました。
このころには父も50歳を過ぎ、体力は落ちてきていましたし、現場仕事がきついように感じていました。
すべてのことを父と母でしていましたので、地元に戻り、手伝うことにしました。
私が24歳頃のことです。
京都から岐阜に戻り、父と仕事をするようになりましたが、大工工事は父がメインで行って
いましたので、私は基礎や足場など大工工事以外の部分を見ていました。
昼間は現場に出て、夜は一級建築士の試験勉強をしていましたが、京都にいるころも
昼は仕事、夜は勉強という生活でしたので苦にはならず、無事に一発合格できました。
合格後は、お客様との打合わせや見積もりなど、現場仕事以外の仕事も増え、母がこなしていた仕事も受け持つようになっていきました。
岐阜に戻り、5年ほどした28歳のとき、妻と知り合い、
30歳の時に結婚しました。
結婚する時、実家の敷地に別棟で新居を建築し、住むことにしたのですが、この家を当時広まりつつあった高気密高断熱
住宅にすることにしました。
それほど大きな家ではありませんでしたが、エアコン一台で
快適に過ごすことができ満足していましたが、子供が生まれてから少し様子が変わってきました。
長女が生まれて1年ほどしたころ、やっとつかまり立ちしたころでしたが、娘の肌が荒れて、
ひどいことになっていました。
医者には、化学繊維に対するアレルギーで、アトピーも原因かもしれないと言われました。
化学繊維の服が、皮膚に触れるとかゆくなり、起きているときも、
寝ているときも無意識にかいてしまい、荒れてひどいものでした。
処方された薬を塗ったり、寝るときは手をガーゼでくるんだりと、大変でしたが2年ほどできれいに治りました。
女の子でしたので、将来大変なことになるのではと悩み、医者に見せていましたが、食べ物アレルギーじゃないかとか、別の病気
なんじゃないかとか、いろいろ悩みました。その時考えた一つが、化学物質過敏症でした。
痛々しい娘の姿 これがきっかけで、素材にこだわるようになりました
科学物質過敏症を調べて解ったことは、それが原因で起こる症状は、めまい、頭痛、吐き気、咳が出るなどで、肌など目に見える症状は少ないようでした。
ただ世の中が「高気密高断熱住宅こそがこれからの家だ」といった雰囲気になり始めたころで、当時、かたくなに昔からの家づくりをしていましたが、気密性の高い住宅の勉強もしていました。
その時学んだことや、病院の先生からの診断などから、原因の一つに肌の乾燥があるようでした。
ちなみに、当時住んでいた家は床は無垢材でしたし、壁こそビニールクロスでしたが、構造材には集成材などは一本も使っていませんでした。
結局、肌荒れの理由は、もともと肌が弱かったのと、乾燥だとわかりました。
(娘には喘息などの呼吸器系の疾患や頭痛などはまったくありませんでした。)
このとき調べた化学物質過敏症が、アレルギーと同じで蓄積して、許容量を超えると発症するということでしたので、可能な限りその様なものを出さない素材を使うようにしました。
住宅政策の流れとして、ゼロエネルギー住宅が主流であり、
冷暖房などの効率を良くするため、高気密高断熱住宅に
することは避けられないように思います。
そのためにも、気密性を高める住宅こそ、使う素材に気をつけるべきです。
今、私は父が建てた昔ながらの住宅に住んでいます。
亡き父が、ほとんど自分で建てた建物です。
建ててから25年ほど経ちましたが、古くなればなるほど
アジがある建物になってきています。
夏、畳の上で昼寝をしている娘を見ると、自分の夏休みを思い出し、
冬、日当たりがよい部屋で、本を読んでいる母を見ると、日本家屋の素晴らしさを実感します。
大地震を経験し、子供の成長の過程でいろいろ学んできました。
日本人が昔から作ってきた、丈夫で自然を取り入れた
素晴らしい建物を、現代の民家としてよみがえらせ、100年たった時、壊してしまおうと思うのではなく、
直して、住み続けていきたいと思う、そんな素敵な住宅を創っていこうと思います。
その地域には、その地域の風、光、におい、土があります。
それを感じるには、その地に立たないと分かりません。
東京のエアコンの効いたオフィスで考えられた建物では、快適な生活が遅れるとは思えません。
その場所にしか創ることのできない、オンリーワン住宅を、その家族のためだけに創る。
そんな職人であり続けたいと思います。